大人になってからピアノを弾きたくなる本『ヤクザときどきピアノ』|書評
大人になってから、新しいことを始める
これは地味にハードルが高い行為だな、と歳を重ねるにつれて気づくことが増えました。
自分の新しい思い付きを否定するように
- 今更やっても…
- 何の意味あるの?
- 時間とお金のムダじゃん
というネガティブな言葉が脳内を踊ることが増えて、心が重くなって行動を後回しにしてしまう。
そして、ふっと悲しくなるんです。
そういう大人にはなりたくなかったのに……と。
「その気持ちわかるよ~」と共感した方に今回おすすめしたいのが、こちら
- 『ヤクザときどきピアノ』
というエッセイ本。
私は雑誌の書評コーナーで知り、妙に印象的なタイトルが気になって、手に取りました。
この本は、ヤクザがピアノを弾き始める本ではありません。
ヤクザの潜入レポを専門としてきたライターの鈴木智彦さんが52歳からピアノを習い始めるという話です。
鈴木さんはそれまでピアノを弾いたことがありません。
だから内容は、至って平凡です。
鈴木さんがずっと弾きたかったABBA『ダンシング・クイーン』をピアノの先生と練習し、最後にガクガク震えながら発表会に出るだけの話。
ただそれだけなんです。
1年の練習で天才的な演奏ができるようになるわけでも、難曲を軽やかに弾きこなすわけでもない。
でも、いやだからこそ。
私はこの本を読んで
大人になってからのピアノ、いいな
と心が洗われました。
特に冒頭の鈴木さんの言葉、これが胸に染みるものがありました。
「もう、ジジイだから……」
口ではそういいながら、若いつもりだった身体にもガタが来て、老いを意識せずにはいられない。ならばまごまごしている時間はどこにもない。どうしてもピアノを弾きたい。
心身が柔軟な子供たちのように、コンクールに出場する腕前にはなれないだろう。それでも大人の優位は必ずある。
つまり最初から、鈴木さんは良い意味で諦めているんです。
今からピアノを始めても、子どもの頃からそれを練習している人には決して追いつけない、と。
それでも
- 大人
- =あらゆる経験を積んだ状態
だからこそ、子どもとは違った姿勢でピアノに取り組むことができると冷静に分析します。
たとえば、それぞれの仕事でコツを掴んでいるし、単純な反復作業がブレイクスルーに繋がる意外性も経験している。困難を克服する方法も見につけられるし、自分がよく間違う自覚も持っている。なにより言語というツールで減少を深堀りし、ナイーブな子供が泣くような経験ですら客観的に楽しめる。
歳をとるということは、失うことではない。
むしろ自分のレベルを上げてきたということだ、という鈴木さんのパワフルな思考がうかがえます。
そこから更に
生涯学習は素晴らしいと嘯きたいのではない。何かをはじめるのに年齢は無関係と自己啓発をしたいのでもない。現実は残酷で不公平だ。どうせみんなくたばるのだ。では鬱々と人生を送ればいいのか。嫌だ。じゃあどうする。明るく笑い飛ばすしかない。
と書くのです。
そう
現実は残酷で不公平だ
歳を重ねるほど、挫折が増えるほど、自分にできないこと足りないことを悟って失敗して、何度も絶望して、色々なことを諦める。
自分はこんなもんなんだって。
人と比べればいつだって劣等感にまみれるし、高みを目指しすぎれば翼は焼け落ちるでしょう。
だからこそ
明るく笑い飛ばすしかない。
どうせみんなくたばるのだ。
これがもう最高だな、と。
この一文で「読む価値のある本だ」と思ってしまった、それだけで作者の勝ちだな、と感じました。
”真ん中のド”で感動できる大人でいたい
ずっとピアノに憧れていた鈴木さん。
ですから、初めて自分の指でピアノの音を出したとき、ワッと子供のように感動するのが印象的でした。
自分で叩いた”真ん中のド”を叩いただけでぞくぞくした。
レイコ先生は得意げに「ふふふ~ん」と笑っていた。「いい音だ!すごい!」
何気ないシーンですが、案外に当たり前の光景ではありません。
自分にとっての
- はじめて
- 小さな一歩
- ちょっとした成果
は人と比べてしまえば、簡単に感動の色を失って自分の足で容易に踏みつぶせます。
だってそれは、ただの”ドの音”だから。
他人から見たら、鼻で笑ってしまえるような音なんです。
でも鈴木さんにとっては、初めて自分で奏でたピアノの音、それは特別な音なんです。
そして、それを本人が一番よく理解しているからこそ
自身の体験からこれだけは断言できる。
他人の技量に恐喝される必要はまったくない。他人がどれだけ上手に弾いても、引け目を感じる必要はない。
と、鈴木さんは書くのだと思います。
目の前の自分にとって大切なものを見極めて、純粋に感動するためには
プライドなんてクソくらえ
自分の感動を恥ずかしがって殺さない。
周りの人に素直に伝えて喜んで、モチベーションに昇華する。
これは簡単そうで、実は難しいと思います。
案外に多くの人が(鈴木さんほど歳を重ねる前に)心に生まれた感動を「こんなことで」と蔑ろにしてしまう、そんな気がするのです。
だから鈴木さんが、自分の小さな進歩や新しいチャレンジを喜んで、純粋に楽しんでる。
その姿勢が単純に読んでいて気持ちの良いものでした。
たった1曲『ダンシング・クイーン』を弾くために
この本の中で、私が特に印象的だったのは鈴木さんが
「『ダンシング・クイーン』が弾きたいんです。」
と、ピアノ教室に電話をかける件でした。
本の最初から最後まで、鈴木さんはABBAの『ダンシング・クイーン』が弾きたいんです。
ただ、それだけなんです。
これが個人的に、目から鱗が落ちる動機でした。
というのも実は私自身、子どもの頃にピアノを習っていたことがあるからです。
でも
- 弾きたい曲
を熱心にリクエストしたことが10年の間に一度もなかった。
与えられた練習曲と課題曲を弾くだけで。
優しい先生だったので、頼めば何でも練習できたはずです。
それなのに「この曲を弾きたいです」とリクエストするという発想も情熱も主体性も、その頃の自分にはありませんでした。
すごく勿体ないことをした、と今では思います。
だからピアノを触ったことのない鈴木さんが、まず「弾きたい曲」から決めてスタートを切り、ただ一心にそれに向かって練習する姿が衝撃的でした。
この本のなかに出てくるレイコ先生は、言います。
「練習すればどんな曲でも必ず弾けます」「難しい曲でもですか?」「ピアノ教師に二言はないわ」
もしこの先、大人になった自分がもう一度ピアノ教室に通うとしたら。
今度はこんな風に憧れの曲に向かってひたすらにピアノを練習してみたい、と感じるものもありました。
自分にできること、自分のしたいこと
突然ですが、自分がもっているものの貴重さに気づくのってすごく難しいですよね。
自分にとっては、当たり前。
自分にとっては、特別じゃない。
だから他人から見たらすごく貴重でキラキラ輝いて見えるのに、本人は全く気づいていないことって多くあります。
だからでしょうか、鈴木さんが
勇気をもって課題に挑むのはとても価値あることだろう。俺もそれを望んだ。しかし、正直、弾ける気がしない。なにしろ俺の左手は右手と独立し、自由自在には動かない。
と書いてる点に、ハッとしました。
左手と右手が独立して動いて、ピアノを弾ける。
それを当たり前だと笑うピアノ経験者は多いと思いますが、私はこの一文を読んで「そうか、大人からピアノを始めるというのは、ここからなんだ……」と自分が見落としていた視点を呪うような心境になりました。
ゼロから何かを始めるのは、本当にすごく大変なことです。
でも鈴木さんは最初から、自分の能力を基準にして目標を決めなかった。
無理やり弾かされてると感じたら、もう駄目なんです。誰も導けないし、助けられない。お金でどうにかなる話でもない。そうじゃなく、鈴木さんが強く『弾きたい』と思うこと。何度つまずいても、時間がかかってもそう思い続けること。弾けるようになるか……究極はそこです。
作中に出てくるピアノの先生は語っていました。
きっとピアノに限らず、新しいことを始める際に必要なのは
「『ダンシング・クイーン』が弾きたいんです」
たったこの一言なのかもしれません。
つまり、自分の望みをはっきりと自覚して形にして絶対にブレないという姿勢です。
それを臆せず他者に伝えて、周りと比較せず行動し、淡々と小さな進歩を喜びながら続ける。
そうやって30歳、40歳、そして50歳になっても新しいことに前向きに取り組めたら。
人生、笑って生きていけそうだな、と。
そんな夢想を楽しみながら、気持ちよく本を閉じることができました。
小難しい読書の合間。
ちょっとした息抜きにおすすめの1冊です。
コメント
コメント一覧 (2件)
いつもブログ楽しみに読ませてもらっています。
自分も大人になってからピアノを始めたので、この本凄く気になりました!
今は背伸びしまくってショパンのバラード1番に挑戦してます。笑
やはり「この曲が弾きたい!」というエネルギーは強いですね。
本作の鈴木さんと同じく52歳でピアノを始めて「ラ・カンパネラ」で有名になった海苔漁師の方もいますし。
何歳になっても情熱を傾けられる事があると人生楽しくなりますよね(^^)
コメントありがとうございます。
ショパンのバラード1番、すごくいいですね~ ^^
私ももう1度ピアノを習うなら、ショパンのバラードがいいな…と思っていました。
海苔漁師の方、知らなかったので調べてみたのですが、こんな方もいらっしゃるんですね!すごい!
「ラ・カンパネラ」が弾きたい一心で練習したとあり、やはり憧れの曲を弾きたいというのが一番の原動力になるのでしょうね。
何かに情熱を傾けるというのは、本当に大事なことですよね。
この本の良さ、共感してもらえて嬉しかったです。ご感想、有難うございました!