「努力」とは何か。有名人の名言から真剣に考察してみた
努力は裏切らない、という言葉がある。
努力は必ず報われる、という言葉もある。
一方で、このような言葉をかけられると
- 「努力は本当に報われるのか?」
という疑念がもやもやと頭をよぎることもある。
生きていると報われない努力がたくさんあることを我々は歳を重ねるごとに学んでいく。
報われると信じたい。
だが、期待が裏切られるのも怖い。
以前、AKB48のメンバーとして知られる高橋みなみさんの
「努力は絶対に報われる」
という言葉に対し、明石家さんまさんが
「努力は報われると思う人はダメですね」
と答えたことが話題となっていた。
様々な努力論が世間を飛び交う中、ひとまず我々はどのように「努力」というものを捉えるべきなのか。
今回は「努力」という言葉について、少し考えを巡らせてみたいと思う。
1、「努力」という言葉の辞書的定義
まず努力について考えるために、辞書における言葉の定義を確認したい。
努力:
心をこめて事にあたること。骨を折って事の実行につとめること。つとめはげむこと
(大辞林)
他には
努力:
ある目的を達成するために、気を抜かず、力を尽くして励むこと
(明鏡国語辞典)
まとめると、ひとまず「努力」の辞書的定義は、
- 目的の達成を目指す行動
- 全力で励むもの
といえる。
これらの定義は一般的に私たちが”努力”という言葉の意味を思い浮かべた時の中身とほぼ近しい。
では、英語の定義ではどうなっているか?
英語には「努力」という訳語にあたる単語が3つ存在する。
- effort
- endeavor
- exertion
だ。
- effort:精力的に何かを行うこと。語源はef(外に)+ fort(力を出す)
- endeavor:より一層の労力を必要とする「努力」。try hard to do or achieve something。簡単にできないことに必死に挑戦する様。
- extertion:use of physical or mental energy。物理的に身体的(もしく心的な)エネルギーを消耗すること。
英語の「努力」と日本語の「努力」という言葉を比べると
- 英語の方がより一層、身体的もしくは心的な力を外に出す「活動」に注目している
ことがわかる。
つまり英語における「努力」は、本来自分もつ力を外に出す「行為」であり、その度合いを細分化している。
一方、日本語の「努力」は英語のそれよりも
- 行動を行う際の精神状態に焦点が当てられている
のがわかる。
辞書の定義にも
- 「気を抜かず」
- 「心をこめて」
といった、心象的な表現がみられる。
今回は、この理由を「努」という漢字の語源から探ってみよう。
2、「努力」とは、〇〇〇の力である
「努力」という言葉に使われている「努」という漢字。
実はその語源は、非常に興味深いものである。
音符の奴は、力を尽くして働かされる奴隷の意味。
力を尽し、つとめるの意味を表す。
(新漢語林より引用)
すなわち「努力」という語はそのルーツにおいて
- 働かされる奴隷が力を尽くしている様
を表したものである。
このことから落語家の立川談志は「努力」について以下のように語っている。
努力とは、馬鹿に与えた夢である。
好きでこだわりがあることには、努力なんて言葉以前に、自然とやってしまうはずなんですよ。
努力という字は「奴(やっこ)の力」と書くんです。
この「奴(やっこ)の力」という視点の鋭さは、日本の”努力”という言葉の核心をついている。
親や教師もしくは上司が使う「努力しなさい」という言葉に、やや抑圧的な響きを感じてしまうのはなぜだろうか。
それは単に彼らの口調が偉そうなだけかもしれないが、そもそも「努力」という言葉には上から下への命という意が込められているからと主張することも可能だろう。
なぜなら「努力」とは
- 身分や能力が低いものが忠誠を誓い、最大限の力を尽くす
という意味が内示された言葉だからだ。
このように考えると、先ほどまとめた英語の定義との異相が浮かび上がってくる。
例えば、以下のようなイチローの言葉が万人の心に届く理由はなぜか?
少し穿った視点から考察してみよう。
努力せずに何かできるようになる人のことを「天才」というのなら、僕はそうじゃない。
努力した結果、何かができるようになる人のことを「天才」というのなら、僕はそうだと思う。
人が僕のことを、努力もせずに打てるんだと思うなら、それは間違いです。
多くの人は、このイチローの言葉を聞き、感銘を受ける。
日本が誇る一流のプロ野球選手でありながら
なんて「謙虚」な言葉なんだ、と。
なぜこのように我々は感じるのだろうか。
それは彼が、きちんと結果を残したうえで「努力」という自分の地位を低める言葉を多用しているからだ。
日本人ならばその名を知らない野球選手が主張する奴(やっこ)の力を語る。
それは実力と実績を兼ね備えた自分の地位を低め、聞き手に対する「謙遜」の意を表す。
一方で
- 結果を残していないのに「努力」という言葉を多用する人
はどうだろうか。
結果を出さず、誰からも認められていないのにもかかわらず、自ら自分を低める言葉を好んで多用する。
だからこそこのような人に対し、長嶋 茂雄は以下のように述べる。
「努力してます」と練習を売り物にする選手は、一流とはいえない。
漢字の「努」がもつニュアンスを字義的に踏まえれば「努力」とは
- そもそも力の及ばないものが目標達成のために全力を尽くすさま
であり、それ自体は讃えられるべきものではない。
だからこそ、結果も出せずに「努力してます」と頻繁に主張する人間は
- 人に認められていないのに自分の価値を下げる言葉ばかりを使っている人
ということになってしまう。
まとめると、イチローのように万人を圧倒するほどの結果をもって、その理由を奴(やっこ)の力である「努力」に集約することにより、生じた謙遜のニュアンスから、人は感心の意を示す。
以上の考えから「努力」は何より
結果ありきの言葉
ともまとめられるだろう。
3、報われない「努力」は存在しない論
「努力」は結果ありきの言葉である。
このような考え方を補足するものとして、ここでは王貞治監督の言葉を引用したい。
努力は必ず報われる。
もし報われない努力があるのならば、
それはまだ努力と呼べない。
これは「努力」とはあくまで成功した人間が、後から原因を語った言葉でしかないという考え方に基づいた言葉である。
これに則ると、高橋みなみさんの
「努力は必ず裏切らない」
という言葉は自分の成功という結果があるから言える言葉である。
ヘアブランドの名前としても世界中にその名を知られるイギリスのヘアデザイナー、ヴィダル・サスーン氏もこのように述べている。
成功が努力より先に来るのは辞書の中だけである。
The only place where success comes before work is in a dictionary.
彼らの意見は
- 結果を出さないと努力は語れない(存在しない)という見方
だ。
この考え方において「努力」とは必ず成功とセットになる。
より極論としてまとめるならば成功者しか努力を語ることができない。
報われていない「努力」ーーそれはそもそも「努力」でも何でもない。
しかし幾らこのように言い聞かせたとしても、我々は報われない「努力」という言葉をそう簡単に切り捨ててしまえるだろうか。
本当に心の底から、この論理に、頷くができるだろうか?
4、「正しい努力」のやり方とは?
どんなに時間をかけて、心を尽くしたとしても、すべての夢が叶うわけではない。
そのことを多くの大人たちが、既に知っている。
成功者が後に語る、報われた「努力」
一方で、そもそも「努力ではない」否定される、報われない「努力」
その差はいったいどこにあるのか?
この思念にふと光を与えるのが「いまでしょ」でお馴染みの東進ハイスクール講師・林修先生の努力論である。
努力は裏切らないって軽々しくいいますけど、補足してあげる必要があるんです。
正しい場所で、正しい方向で、十分な量なされた努力は裏切らない。
この林先生の言葉は、我々がふとした時に陥ってしまう「努力の罠」に対して警鐘を鳴らしているといえるだろう。
というのも「努力」という漢字の語源にあるように、我々日本人は時に「気を抜かず」「心をこめて」といった心象にばかり重きを置く傾向がある。
つまり
- 実際の「行動」を重視せず「心的活動」のみで「努力」をとらえてしまう
ということが多くある。
例えば、どうしても東大に入りたい受験生がいる。
彼は、東大の赤本を買い、東大のオープンキャンパスに行く。
東大のホームページを読み漁り、東大に関するありとあらゆる情報を頭に詰めている。
東大の近くにアパートを借り、いつも東大のことで頭がいっぱいだ。
そして、自分が東大に通う日を毎晩夢見ている。
彼はその心を、すべて自分の夢と目標に尽くしている。
にもかかわらず、費やした時間、労力は何一つその夢に貢献しないだろう。
彼がいくら「努力してる」と主張しても、このままでは彼の夢は絶対に叶わない。
なぜなら、彼の努力は「受験勉強をする」という
- 正しい方向を見失っている
からだ。
これは一見、何とも馬鹿らしい例えではある。
だが、実は同じ状況に陥っているという人間が少なくはないのだ。
小説家になりたいのに、文章を書かない。
ミュージシャンになりたいのに曲を作らない。
好きな人と結ばれたいのに、話しかけることができない。
自分の心が欲望や夢に向いているほど、その思いと行動の間にあるギャップが大きさに人は気づかず、悩み苦しむ。
こんなに苦しいのに。
なぜこんなに望んでいるのに、目標が叶わないのか?
それは単に正しい努力の方向に進んでいないからだ、と疑ってみてもよいかもしれない。
やってみて「ダメだ」とわかったことと、
はじめから「ダメだ」と言われたことは、違います。
イチローの言葉が万人の心を打つのは、なぜか?
彼がまず「行動」ありきの人であり、まっすぐと己の道を突き進んだ成功者だからだろう。
失敗したら怖いという「恐れ」
全てが明らかになるのを恐れた結果、人は正しい道をあえて避ける。
目的地にたどり着くことのできない道を、好んで選ぶ。
必用なのは、おそらく思いを圧倒するほどの「行動」による疲弊である。
全ての雑念を忘れ、ただそれに打ち込む奴(やっこ)の力。
それは我々が考えているよりも、うんとシンプルなものなのではないだろうか。
5、努力と「運」の関係性
とはいっても我々が「努力」と呼ばれる行為を行う際、大きく分けて以下二つの言葉が頭をよぎる。
これは我々が、努力に時間を費やすことを阻もうとするだろう。
その一つが
「運」
である。
努力が必ず報われるとは限らない。
成功は「運」次第なんだろう、と。
しかしこのような考え方をしては、何も始まらない。
ここでは「運」と「努力」の相互関係について、2つの考え方を提示し、その対策を考案してみよう。
①「自己完結型」と「他者依存型」の目標
まず
- 自分の目標(夢)が「運」に左右されるかどうか
見分ける方法について考察したい。
それはズバリその目標が
- 「自己完結型」
- 「他者依存型」
このどちらに近しいかによって、異なってくると主張しよう。
さて、我々日本人の人生において、三大関門と呼ばれる三つの出来事。
それは
- 大学受験
- 就職
- 結婚
である。
そして、この3つは下から順に難しくなるといわれている。
それは、なぜか?
下に行けば行くほど自分の努力だけではなく、他者の存在に結果を左右される度合いが高まるからである。
トレーニングや勉強を積み、自分の能力値を高めるという
- 「自己完結型」
の目標は、他者性の介在が少ない。
「テストで良い点数を取る」といったように、達成できる可能性が自分の努力量に比例しやすい。
しかし「あの会社に就職する」といった目標は、そうはいかない。
企業研究や自己アピールといった努力量の必要性は否めないが、やはり最終的な決定権は企業(他人)の側にある。
「あの子と結婚したい」といった目標もそうだ。
- 相手の意思が不可欠であり、自分の意志の強さだけではどうにもならない縁
が必要となる。
つまり今、自分の抱いている夢や目標が「他者依存型」のものであればあるほど、「縁」や「運」によって左右されやすくなり、その実現は困難なものになる。
では、自分のもつ夢や目標が「他者依存型」のものであった場合、どうすればよいのか。
答えは簡単だ。
まず「自己完結型」の小さな目標を立て、それをクリアしていく。
そして最終的に「他者依存型」の目標にたどり着くという具体的な道筋を立てればよい。
例えば「あの子と結婚したい」という夢がある。
これをいきなり叶えることはできない。
だが
- 「あの子に毎日、挨拶する」
- 「一日一回、優しい言葉をかける」
- 「誕生日を祝う」
と自分の行動を積み上げていくことはできる。
先ほど挙げたイチローの言葉がさす「努力」というものも、これに等しいプロセスだ。
いきなり「メジャーリーグで活躍する」ことはできない。
だが
- 「毎日素振りをする」
- 「休日は友達と遊ぶよりも練習する」
といった「自己完結型」の目標を一つずつ子供時代からクリアしていたことが、彼の指す「努力」ではないだろうか。
「自己完結型」の目標を沢山立て、それを少しずつ達成する。
この過程によって、我々が得られるかけがえのないもの存在を、さらにここでは指摘しよう。
それは
自信
である。
巷でよく見かける悩みの中に「自分に自信がもてない」というものがある。
しかし「自信」とは、自分が決めたことを
- ちゃんとできる
- 達成できる
という自分への「信頼」と言い換えれば、これらの悩みはすぐに解決する。
自分に自信をつける方法は簡単だ。
できるだけ「自己完結型」の小さな目標を沢山立て、確実に達成していけばよい。
つまり先ほど述べた林先生の努力論を補足すると「正しい努力」の方向とは
- まず「夢」がある
- 「自己完結型」の具体的な目標に細分化
- 達成する
- 同じ事を繰り返す
- 目標の難易度を上げていく
- 自信をつける
- 実力をつけた後「(他者依存性の)大きな目標」にチャレンジ
といった一連のプロセスを意味しているのではないだろうか。
細分化した「自己完結型」の目標が、他社依存性の「大きな目標」との関連性が低ければ低いほど、実現性は薄れていく。
また仮に「他者依存型」の大きな目標を達成できなかったとしても、それまでに積み上げた「自己完結型」の目標をクリアしているという意味では、「努力」は決して我々を裏切っていない。
何故なら積み上げた「自信」は別の「大きな目標」へチャレンジする際に、必ず我々を支え、励ます原動力となるはずだからだ。
つまり「自己完結型」の目標において、あるのは単に
「やるかやらないか」の二択だけ
である。
この意味で「努力」は必ず報われるといってもよいのではないだろか。
②「運がよい人間」と「運が悪い人間」の違い
もう一つ「努力」と「運」という話において
- 頭に入れておきたい考え方
がある。
これはパナソニックを一代で築いた松下幸之助さんの考えに依拠したものだ。
さて、彼の良く知られた名言のなかに、このようなものがある。
成功は自分の努力ではなく、運のおかげである
この言葉の本意は
「松下幸之助は、たまたま運が良かっただけなんだ」
と我々を失意の底に落とすことではない。
というのも、松下幸之助さんに関する有名な逸話の1つに、このような話があるからだ。
彼は会社の採用面接の最後に
- 「あなたは運がいいですか?」
と、質問していたという。
そこで「運が悪いです」と答える人間は、どんなに学歴がよくても落としてしまった、と。
この問答の面白い点は
- 「運が良い」と答えた人間は、自分の失敗を「運」のせいにはできない
という言葉のロジックだろう。
つまり「運が良い」と答えた人間は、自分の失敗を「運」のせいにはできない。
何故なら、自分は「運が良い」はずだからだ。
だからこそ言い訳ができない。
失敗はすべて自分の責任であるはずだし、次にまつ成功への必要なプロセスと考えるしかない。
しかし「運が悪い」と答えた人間は、違う。
全ての失敗を「運」のせいだと片付けることができる。
反対に成功したときは、どうだろうか。
すべて、自分の実力のおかげだと考える。
なぜなら自分は「運が悪い」人間なのに、成功できたと考えるからだ。
この質問で知りたいのは、その人の運の良し悪しではない。
その人物の物事に対する考え方、だ。
この逸話からわかるのは、運の良し悪しは、出来事に左右されることではない。
それは
自分で決められる考え方の枠組みにすぎない。
ならば自分は、どちらの人間になりたいか?
できることならば「運」の偉大さを知ったうえで、自分には必ずそれが味方すると信じる「強さ」をもちたいものである。
6、「努力」と「才能」論
最後にもう一つ、我々が「努力」することを躊躇う原因となりやすい
「才能」
という言葉について考えてみたい。
繰り返すが
- 努力の「努」という感じは、奴(やっこ)の力
つまり、力を尽くして働いている奴隷の意だ。
一方で「才能」は
- 天が選んだ、元より才ある人物の能力
この語義に日本人は敏感に反応し
- 「才能型」
- 「天才型」
という対概念で考えることを好む。
例えば、スポーツ(もしくは戦闘)を題材にした少年漫画の中に出てくるキャラクターは往々として
- 「天才肌」
- 「努力肌」
の二種類に大別される。
突然だが、松本大洋の『ピンポン』という漫画をご存知だろうか。
この作品は「努力」と「才能」について大変考えさせられる卓球漫画である。
色々な感想をネットで読み漁ったが、中でもこの作品が提示する「努力論」に関して、非常に的を得た論を展開されているブログ(松本大洋「ピンポン」が描く天才と努力 – あざなえるなわのごとし)を発見したので、少し引用させていただきたい。
天才とは才能だが、それは「ある」か「ない」かで語れるものではない。
先に書いたが、正しくは費用対効果。
時間や体力、修練と言うリソースをつぎ込み、その努力を現実的結果としてどれだけ発揮できるかという効率性の差。
努力 X 天賦の才=結果
つまり、努力と才能は対立する二つの概念ではない。
いわば
- 「才能」が「種(タネ)」ならば「努力」は水
である。
どれだけ水を与えればよいのかわからない。
花がいつ咲くのかもわからない。
ただし確実に言えるのは、水を与えるのを止めれば、成長はそこで止まり、花は決して咲かない。
つまり自分の潜在的な能力(才能)だけでは、人は決してそれを開花することはできない。
本田圭佑さんの言葉に
世界一になるには、世界一の努力が必要だ
というものがある。
「努力」を必要としないのが「天才」ではない。
「努力」を味方につけた者こそ、真の「天才」ともいいかえるべきなのだろう。
我々は「天才」を必要としている
『夢を売るゾウ』という啓発本でヒットした水野敬也氏のブログ「ウケる日記」(水野敬也オフィシャルブログ「ウケる日記」Powered by Ameba)の中に
- 「天才の倒し方」
という非常に興味深い記事を見つけたことがある。
その中で水野氏は
世の中のほとんどの人が「天才の倒し方」を必要としていない
と述べていた。
なぜかというと
- 「この人は凄い、こんな奴にはなれない」という人間を我々は無意識のうちに欲しているから
である。
我々の多くは、努力(=継続的に何かを続ける行動)が苦手だ。
そして俗にいう「天才」の存在は我々に「努力」をしなくて済む理由を与えてくれる。
こんな「天才」にはなれっこない。
自分には「才能」がないから、と。
すなわち、あいつ(天才)と俺(凡人)は違うからという諦めの理由として、無意識的に比較対象を欲しているという指摘である。
少年漫画の中の「天才」は、一度読んだ本をすべて暗記してしまうといった類の超人的な能力をもったキャラクターが存在する。
しかし現実世界で、夢をかなえた成功者のほとんどはこのような能力をもっていないだろう。
かくいう私も以前、ある人物のことを「天才」だと崇めていた。
頭の中に辞書を詰めているではないかというほど知識に富み、専門分野を超えたあらゆるジャンルに驚くほど造詣の深い人物である。
その人を「天才」だと疑わなかった。
世の中には、生まれた時から目に見えない圧倒的な序列と壁がある、と自分を卑下する材料にしてた。
或る日、その天才が突然「ピアノ」を始めた。
そしてすごい勢いで、のめりこんでいくのを見た。
ピアノ教室に通い始めたと嬉々として語る「天才」は、とても楽しそうで、話題はピアノ一色になった。
このとき私はハッとした。
この人は
- 他人が「努力」と呼ぶものを「努力」と思わずやってる人なんだ
と。
あまりに物事に夢中になり過ぎているだけの人。
夢中になり過ぎて練習量、時間、内容の徹底さが普通の人が想像するそれを圧倒的に凌いでいる人。
結果として、人より秀でた能力を身につけた人。
その気づきを得た瞬間、彼に貼り付けていた「天才」という見えないラベルは、どこかに飛んでしまった。
好きなものが多すぎて、知りたくて、極めたくて仕方がない。
天才だと崇めていたその人はまるで子供のように
- 人よりも好きなものに夢中になりやすい人
なだけだった。
無意識の努力論
最後に、よく知られた明石家さんまさんの努力論にこのようなものがある。
努力は報われると思う人はダメですね。
努力を努力だと思ってる人は大体間違い。
人は見返りを求めるとろくなことないからね。
見返りなしで出来る人が一番素敵な人やね。
この言葉はなぜ「努力が報われる」という考え方を否定しているのか?
それは「努力」を否定しているのではなく
- 「努力」のもつ受け身で義務的ニュアンスを否定している
のではないだろうか。
何度も繰り返してきたが「努力」という言葉はそのルーツにおいて、自分の意志であるという前提が欠けている。
かつ身分や能力が低いものが忠誠を誓い、一種の「義務」として最大限の力を尽くすというニュアンスが含まれている。
我々が、継続的に何かを行うという行為に対し「努力」という言葉を使うとき抜け落ちるもの。
それは、一体何なのか?
ズバリ
圧倒的な娯楽性
である。
「努力」は苦しく、辛い、我慢の連続である。
我々は「努力」という言葉に、そう勝手に意味を添えていないだろうか。
だが、本当にそうなのだろうか?
もし我々に「才能」があるとすれば、それは何かをとことん好きになれる力ではないだろうか。
「好きなモノ」は続けられる。
反対に「嫌いなモノ」は続けにくい。
その気持ちにどれだけ素直になれるのか?
それだけが「天才」と「凡人」の境目なのではないだろうか。
先ほども言及した「天才の倒し方」で水野敬也氏は
天才は存在しないという言葉はまったくの真実で、というのも、赤ちゃんは基本何もできないからです。
つまり、天才に見える人も生活の中で「自然に訓練」してきたにすぎません。
訓練を無意識にすれば天才、意識してすれば努力家となります。
と述べていた。
訓練を無意識にすれば天才、意識してすれば努力家
すなわち、やっていることは同じだが
- 無意識(楽しい)であれば天才
- 意識的(苦しい)のであれば努力家
という考えだ。
さらに参照として、以下の漫画を引用しておこう。
この問いに関する答えは、以下のようなものになる。
「1万時間やれば誰でもプロ!~ピグマリオン効果」マンガで分かる心療内科
「努力」という概念は
- 10000時間という具体的な数字
で表すことができる。
単純に好きなものを好きであり続け、どこまでも追及する。
そして、これだけの時間を費やせば、誰でも或る程度の結果を出すことができる。
だからこそ
人生をかけて自分の好きなことを徹底的に楽しみ、極めればいい
それこそが自らの持つ「才能」を開花させる近道ならば、我々は一分一秒たりとも今もつ限られた時間を無駄にすることなどできないのかもしれない。
まとめ|「努力」について
長い記事となったので、最後にその要点となる内容をまとめておきたい。
- 「努力」は語源において、奴(やっこ)の力
- 身分の低いものが力を費やすという否定的なイメージを伴う
- 「他者依存型」の目標より「自己完結型」の目標の方が達成しやすい
- 「自己完結型」の目標を少しずつ達成することで「自信」を付けるというプロセス
- 「運がよいか悪いか」は自分の考え方次第
- 「努力」は「天才」という言葉と対立させられるが、正反対に位置するものではない
- 「努力」が水ならば「才能」は種のようなもの
- 好きなものに打ち込むことで、無意識に努力できれば「天才」
- 10000回練習すれば「努力」は実を結ぶ
簡潔にまとめれば
- 「好きなことを存分にして、苦労を感じないように一定の練習量に達し、結果を出す」というプロセスを意識すること
が成功の秘訣だということだろうか。
留意しておくならば「努力」を楽しむといった考え方を見直すうえで
- 「苦」を全く感じない「努力」は存在しない
ということだ。
そりゃ、僕だって勉強や野球の練習は嫌いですよ。
誰だってそうじゃないですか。
つらいし、大抵はつまらないことの繰り返し。
でも、僕は子供のころから、 目標を持って努力するのが好きなんです。
だってその努力が結果として出るのは、うれしいじゃないですか
「楽しい」と「ラク」は別だ。
大事なのは「苦」を感じたとしても、それ以上の「喜」を見出せるか否かではないだろうか。
「苦味」も含めて人生の味を存分に「楽しめ」という幸福論。
最後に、アイドルとしても俳優としても活躍されているV6の岡田准一さんの言葉で本文の最後を飾りたい。
蓮の花は“人間の理想像”
水の下はすごく汚いが、きれいな花を咲かせる。
下にいろいろ(苦労が)あるからこそきれいに咲ける。
蓮が花を咲かせる理由は「報われるため」でも「誰かに褒められるため」でもない。
花だから、咲くために生きる。
そして我々人間もまたこれに然り、なのかもしれない。
コメント
コメント一覧 (4件)
がっつり書いてますね。読みました。長嶋さんの意見には同感ですが、王さんの意見には首をかしげます。王さんに言われたら身も蓋もありませんが。さんまさんの意見には激しく同意します。見返りを求めてやってもろくなことはないと私は思います。
コメント有難うございます。
努力論というのは、人それぞれで面白くありますね。王さんの意見には私も疑問を呈する形で文をつなげ、さんまさんの意見を掘り下げる形で結論を出しました。
この記事は、かなりがっつり書いたのですが、逆に分量が多すぎて、まとめきれず、当ブログの中では読み手が少ない記事になってしまいました。
感想をいただけて、嬉しいです。有難うございました。
はじめまして。
とても興味深く読ませていただきました。
「他者依存型」目標に対して結果を求めるから、自分は努力は報われない・努力は辛いと感じてしまうのかな、と思いました。
あと、王さんの言葉には私も納得がいかず、調べてみると、
「努力しても報われないことがあるだろうか。たとえ結果に結びつかなくても、努力したということが必ずや生きてくるのではないだろうか。それでも報われないとしたら、それはまだ、努力とはいえないのではないだろうか。」
というものでした。
ネット上で見かける「王さんの言葉」とはずいぶん違った印象を受けます。
KYSさん
コメント有難うございます!
そうですね。私もこの記事を書いた時、色々と考えたのですが、一口に目標といっても、その成否が他者に依存している度合いが大きければ大きいほど、自分のコントロールできる範囲と言うのは限られてくるのかなと。
逆にいえば、自分の努力量に比例した結果が得やすいものに、集中して取り組むことで、自分に対する信頼を取り戻すというプロセスも大切なのではないかと考えています。
王さんの言葉に関しての言及、大変参考になりました。
この記事はレポートを書く姿勢で、ネットに書かれている内容や、有名人の言葉を引用し、「努力」という万人に興味をもってもらえそうな主題で考察を行った試論のようなものだったのですが、やはりネットからの参照のみに依存すると、考察そのものに対する信頼性が欠けますね。
非常に反省しましたし、気付きにもなりました。
重ね重ね、お礼を。
またコメントに気づくのが遅く、返信がね遅れてしまったことお詫び申し上げます。失礼いたしました。